θ=5 β=5

苦難の助手よ、私に続きたまえ。

平沢一族にはマンガを描く人間が3人居た。1人はペンを捨て、サラリーマンになった。もう1人は私の兄You1で、後にイラストレーター、グラフィック・デザイナーとなる。そして今もマンガを描いているのは平沢孝だ。平沢孝は平沢四郎の息子である。平沢四郎と言えば亀有の伝説であり、私の誇りでもあった。彼はアル中で死んだ。それは亀有気風の終焉でもあった。この世にはもう、平沢四郎と亀有は無い。

平沢孝も危うく死ぬところだった。飲みすぎではなく、食いすぎで。病院に担ぎ込まれたときは100キロの巨漢であった。脳の血管がブチ切れ、孝は死の淵をさまよった。

私が病院に見舞いに行ったときには、孝はすっかり元気な半身不随で、快活に言語障害だった。イラストを描いて生計を立て、そろそろ自分のマンガの発表かと、周囲の空気も足並み揃った矢先の出来事だった。ご丁寧に彼の脳は、体の右半分をきっちり動かなくしてくれた。さあ、これでマンガを描いてみろと言わんばかりに。

彼を見舞いに行き、病室で私が最初に言ったこと、

                                              ばーか

孝は、ケケケと笑った。私は孝がケケケと笑うことを知っていたから、ばーかと言ったのだ。普通ならシャレにならないことも、シャレになる。それが平沢四郎の息子たる所以である。孝は既に自分の境遇をシャレにする準備が整っていた。孝は終始ニコニコしていた。あるいは、ハッハッハと笑った。どことなく悪意の片鱗を覗かせる乾いた笑。そうだ、平沢家のシャレには悪意と愛が同居していなければならない。平沢四郎の生涯そのものだ。

孝は、自らをまな板に乗せて見せる悪意に加えて、自己愛の実践を披露した。ベッドの脇に置かれたスケッチブックには、左手で描かれたマンガの数々があった。そんな時「よくやった!おまえならできる!」と手を取ってヨヨヨと涙するのは平沢家の流儀ではない。より深い愛を実践するには次の一言が適している。

                                                へたくそ

「オマエはまだ若い。何でも有りだ。」と言って私は病院を後にした。あれから一年。いや、一年と少し。孝は左手でマンガを描き続けた。右手で描いていたころのレベルにはまだ至らないが、彼の左の世界は更に進歩を続けている。

そんな平沢孝から、諸君に「ガンバレ」と、残暑見舞いのレスキューだ。

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