θ=8 β=2

—-Phase-8

屈辱的なコカコーラの看板に迎えられ、ワゴン車はモン族の村に到着した。そこは、大きな駐車場とお土産屋が立ち並ぶ単なる素朴な商店街だった。モン族特有の文化や生活はもはや生きて営まれるものでは無く、販売される物としてのみ存在しているように見えた。どこも同じだ。

あれやこれやの世話を受けながらまず昼食を終え、我々一行は村の坂道を上って行く。それにしても目立ちすぎる。マレーシアやインドネシアで作られたかも知れない民芸品やモン族の手芸品、さらには、モンゴル産だといういかがわしい曼荼羅まで売られていた。民芸品の売り込みをかわしながら派手な一行は滝のある開けた場所に到着する。かつて精米に使われたという大きな木製の装置が有り、その脇は断崖絶壁だ。絶壁の下方には川が流れていた。私は断崖の縁に立ち、川の流れに見入った。乙が近づき私の手を取る。POY-SIANの時間だ。本当に嬉しそうだ。子供の怪我の処置をする母親のような笑顔が現れる。

10 年近くタイ・カトゥーイと交流を持った経験の中から、一つ言えることがある。彼たちのこうした行為、あるいは性転換手術やホルモン剤の投与に至るまで、その動機は多くの人達が推測するように、男性に好かれるためでも、男性に求められるからでも無い。ただそうしたいからするのだ。そうせざるを得ない衝動に従っているだけなのだ。しかし、彼女らが自らの女性性を成就させることにおいて、本物の女性の仕草や生き方はあまり参考にされていないようだ。注意深く見ていると、彼女らが女性的に見える要因である仕草や行為、考え方は、本物の女性には見られないものが多くある。おそらく彼女らが女性性の成就において参照しているのは、”女性”あるいは”母”の原始心像のようなものだろう。それは、形や行為に現れる前の普遍的な原理であり、社会や時代の影響を受けずに生き続ける人類共有の記憶のようなものだ。カトゥーイは、その原始心像の表現のために一生を費やすのであり、社会や時代の価値観によって定義された”そう在るべき”実物の女性をコピーしているのではない。カトゥーイの生態が多くの場合私に治療的に作用するのは、むしろ原始心像の消去に余念のない現代の解放された女性を次々と出力する男性的社会と、それに一致しない私の原始心像群から発祥する心的生活との間で崩れたバランスを修復してくれるからだろう。当然のことながら、彼女らは他人の治療のためにそうしているのでは無く、自分のためにそう生きているだけだが。

そうだ、POY-SIANだった。嬉しそうにPOY-SIANの処置を私に施す乙の背後に、甲、丙、Waiが近づいてくる。四人はタイ語で話している。ふざけているようだ。何を話しているのか、私にはぜんぜん分からない。Waiが笑いながら「ダメダメ」という仕草をした。私が振り向くとWaiは三人娘が制止するのをかわし通訳を始めた。

「ししょう、かのよたち はなす。”あなた ここから つきおとす いいじゃない。”だかー、”あなた おちるとき いのち なくなりますから、もう だれにも とられない。” ハハハハ。わたし、かのよたちに ゆったよ。”ししょう、へんな ひと ですから、おちないでとんでっちゃう。”ハハハハ。」

わらうほど面白くない・・

「わたし ゆった の あとで、かのよ ゆった。”あなたに ひも つけて とばす。”ダーゴンファイみたいでしょ。ハハハハ。おもしろい の はなし するは、いいじゃない。」

別に面白くない。

さあ、この先は期待できる物はなさそうだ。引き返そう。一行は再び坂を下る。お土産屋に挟まれた狭い道の途中に老婆が座っていた。モン族の衣装をまとい、何をするでもなくたた座っている。深く刻まれたシワだらけの顔は上品で気高い。写真を撮らせてもらえないだろうか。Waiがタイ語で話しかけるが通じない。近くにいたお土産屋のおばちゃんがタイ語からモン族の言葉へと通訳してくれた。老婆は、「いいとも、さあそばにお座りなさい」という仕草をした。sato -kenがカメラのアングルを決める間、三人娘は老婆の向かい側に立ち、敬意を表して合掌した。合掌とともに少し膝を曲げる綺麗なフォームだ。魔法のように、周囲にはセレモニーのような厳粛な雰囲気が発生する。私はどうやって撮られれば良いのか戸惑った。この、モン族の母の存在感を前にして、テクノロジーの国から来た芸人など安っぽい置物のようだ。三人娘と老婆の間で私はこの上ない恥ずかしさに耐えるのが精一杯だった。その時、老婆が私に何かを話しかけた。何を言っているのか分からない。しかし、その気品と包容力にあふれたイントネーションが私をリラックスさせた。この生きた言語とイントネーションも、そう長くは生きながらえないだのだろうか。この老婆が最後のモン族かも知れない。老婆の寿命が尽きる時、モン族の生きた生活と、生きた言語は消滅するのだろうか。sato-kenのデジタルカメラがこの老婆の姿を情報化して保存するだろう。しかし、この母なる気品と包容力はどこに留めればよいのか。テクノロジーの芸人は、死刑を待つ罪人のような目で娘達を見上げたかも知れない。娘達は微笑んで言った。

「笑って」

母よ、この娘らの内に生きながらえたまえ。

完。