θ=6 β=4
今日、クラインの壺に会った。
中が外で外が中の二人を連れて来たのは友人のマレーシア人である。中が外で外が中の壺の二人の美人は共にフィリピン人である。
私はフィリピン人の壺として中が外で外が中な美人の二人を少し羨ましく思う。なぜなら、だれだって一度はクラインの壺やメビウスの輪になってみたいと思うのが人情だからだ。ただし元に戻れるなら。
その二人は、標準的な元の三次元人体には戻れない。ビチェット先生にお願いして戻れなくしてしまったからだ。ピチェット先生は、お金さえ払えばどんな人でもクラインの壺にしてくれる。条件は一つ。ピチェット先生がクラインの壺にできるのは男性だけ。
ピチェット先生がクラインの壺の術を始めたのは比較的最近のようだ。それ以前はむしろ、展開図あるいは折り紙のような術であり、三次元空間処理としての整合性はまだ想像可能な範疇で保たれていた。空間の整合性というよりむしろ、社会通念や倫理観の整合性と言ったほうが良いかもしれない。
展開図や折り紙による解決は、後に精神による補足や誇張が必要だったようだ。「精神による補足」は一つの鍵だったように思える。一方クラインの壺化においてはほとんどの神経を無駄に殺さない。外だったものが中になるように、分布が変わるだけである。術を受ける者にとってはより満足度の高い問題解決になる。
身体感覚の欠如を補う「精神」はどうなるのだろうか。第三者の身勝手な発想ではあるが。
ピチェット先生は世界中の人々をクラインの壺にして問題を解決している。解決したばかりの二人のクラインの壺は幸福そうだった