θ=7 β=3

—-Phase-2

油断だ油断だ油断だ!

持参した目覚ましのアラームに次いでホテルの部屋の電話が鳴る。誰だろう?電話のモーニングコールはセットしていないはずだ。

「サワディーカー」

朝から甘ったるいハスキーボイス。最後の”カー”を脱力して鼻に抜き、”カー”と”ハー”を4対6で合成した発音は、本物の女性には照れくさくてできない芸当だ。まさか、こいつ。。。

「おまえ、朝まで遊んでたんじゃないのか?」

「はい、でもヒラサワさんにモーニングコールしてから寝ようと思って。じゃあね」

起きぬけのボンヤリした頭でふとドアのほうを見る。隙間から封筒が差し込まれている。

「ドアはゆっくりと開けてね。朝のグリーンティーをどうぞ。」

ドアを開けると、中に日本茶のティーバッグが吊されたポット一杯の熱いお湯が置かれていた。おい、そこまでやるか?しかしまあ、犯人は分かっているし、悪い気はしない。今夜会ったら「お見事」とでも言ってやろう。

ん、でも待てよヒラサワ。それは危険だ。

全ては昨夜の夕食から始まった。今回の渡タイの目的の一つは、亡くなった8人のカトゥーイのための追悼ライブが可能かどうかの感触を得ることである。チェンマイ組のパフォーマンスを吟味し、無くなった8人と直接繋がりのあった生き残り、Aehに与えた課題がどれだけ達成されているかを確認することだった。訳あってAehはタイの片田舎に引きこもり、ショーからは離れている。Aehはチェンマイには居ない。コンタクトは電話のみで行われる。この構図に潜む意味を読み切れなかった私が大きなミスを犯していることに気付いたのが昨夜の夕食の時なのだ。例によってサイモン・チェンマイのダンサー三人娘、座長のディアオ姉さん、普段は女装していないRangの5人を交えての夕食会で私が犯したミスは次の通りである。

●私は5人の内の特定の誰かのゲストとして彼女らに接していなかった。

では説明しよう。カトゥーイは常に自らの献身の対象を欲しがっているかに見える。男性の世話を焼くことで、その対極にある性を成就させているかのようだ。対象は恋人でなくとも、親しい男性の友達でありさえすれば良さそうだ。ただ、不特定の男性であるよりも、特定の誰かの世話焼き役という立場が保証されることで、よりいっそう心的安定を得ているかのように見える。

では時を8年程遡ってみよう。当時カトゥーイの生態などなにも分かっていなかった私が、3ヶ月に一度という頻度でプーケットに逃亡していた頃、大した騒動の種にならなかったのはラッキーであった。当時私は明確にNのゲストとして扱われていた。大勢のカトゥーイたちと食事をしたり遊びに行ったりする時は、Nがヒラサワ番として了解されており、どんな時でも一行を仕切るのはNであった。ところが、仕切が甘いと途端に歪みが生じるのである。ケアのスキを狙ってゲストの評価を得ようとする行動がグループの中に生じ、サービスバトルが始まる。ヒラサワをめぐるバトルの場合、いざこざに発展する直前でハジャイ・ファミリーが介入した。ハジャイ・ファミリーとは、タイの最南端の都市ハジャイでショーの一座を形成するカトゥーイのファミリーである。Aehがハジャイからプーケットに移住したのをきっかけに、ハジャイ・ファミリーの頂点であるHong姉さんがプーケットに滞在中の出来事であった。Hong姉さんに厳しくしつけられた二十歳そこそこのAehが、Hong姉さんの監視の下、あっという間に歪を修復し、バランスを回復させてしまった。以後、Aehがヒラサワ番となり、彼女が行方不明になるまでその秩序は保たれた。

そして今、私が訪問中のチェンマイにAehは居ない。ヒラサワ番不在を知ったチェンマイ三人娘に何が起こったか。

油断だ油断だ油断だ! 初心者にも劣る愚行だ!
さあ、始まるぞ。やれるもんならやってみろと言わんばかりの、献身の大戦争が。私はもう逃げられない。