「超・乙女」とは、あんどう蒼の看板である。それは慌て者のうかつな解釈から遙か深淵なる生存の態様までも許容すると思われる、あんどう蒼的表玄関だ。しかるに、私はこの「標語」に別の意味において同調するのである。それはヒラサワ的バック・ドアから侵入するSP-2体験の結像点を表すものとして転用が可能だ。これを拙著「SP-2」から引用するなら、

“しかもそれはあなたが経験したことの記憶ではない。はるかな祖先からDNAに乗って連綿と受け継がれて来た記憶だ。それは時に、月や海や大地を物語る者の胸にも去来した、悠久の記憶に住む像”

なる乙女である。ゆえに「超」である。

勿論これはヒラサワ的「超・乙女」だ。だが、あんどう蒼の表玄関とヒラサワのバック・ドアが同じ広間に通じているらしい、あるいは通じたいと願って開けたものと推測することはあながち誤りではないと思われる。それはあらゆるものの原因と成就の段取りがとぐろを巻く書庫、過去現在未来が同時にある無方向の流れ、あるいは万物連関の花咲く大広間である。

あんどう蒼著「私が夢見た『優』」は彼女にまつわる実話を恋愛私小説風にまとめられたものだ。それは無防備で読み進めれば何事も起こらないかのような、ごくありふれた恋人同士の卑近な日常を描いた物語と錯覚してしまうほどにさりげない。声高に「私は不幸なGIDです」と主張する表現などは無く、しかし時折ふと、そしてさりげなく、読書する者を取り巻く次元がスリップしたかのような覚醒が起こる。二人の登場人物が両方男性の姿をしているということに気づかされる時だ。人は物語や出来事を処理する時、過去に経験した物事が、整頓された文脈としてストックされたある種のパターンにそれを収納しようとする。「私が夢見た『優』」は、「どうぞそこにお納めください」と言わんばかりに素直に流れて行く。それゆえ時折食らう平手打ちは鮮やかな覚醒をもたらすが、それは作者が意図したものではなく、あくまであんどう蒼的に素直な流れの結果である。これが「その1」である。

「その2」として。そして誇張されたように美しく描かれる情景が、最後にバタンと開かれる扉のための布石として配置されている点である。卑近な日常に点在する出来事とそれを包容する胸苦しいほど美しい「自然」との対比に「何か」を読み取れと迫られるかのようである。それは辛く否定的な感情を示されることの何倍もの圧力で胸を締め付ける。そして最後にバタンと開かれる扉。開閉の境界すら意識されないまま、気が付けば開いている扉。開くのは一枚の扉ではなく、四方で開くのである。というより、かつてドリフのコントで見たような、四方の壁がいっぺんに展開されるような変換である。底面に日常を残し、前後左右と上方に宇宙空間が広がるような変換である。

私が苦手な私小説的風情を持つ「私が夢見た『優』」を最後まで読めたのは、以上の「その1」と「その2」の理由と、円環するループ状になった構成という私好みのテクニックによる。というより、「私が夢見た『優』」は私小説などではない。私は読み終えた「私が夢見た『優』」を躊躇せず本棚のSFコーナーに納めた。

おそらく「私が夢見た『優』」の読者のほとんどが抱いたかもしれない感情、しかし、彼女が本の中で示した姿勢を思うなら、決して持ってはならない、あるいは持ったとしても胸にしまっておかなければならない感情がある。怒りだ。それは”彼女の恋人”に対する怒りだ。私はそれをしまっておくことができなかった。そして、そのことを素直に彼女に伝えてみた。「彼はGIDの敵みたいなヤツだ」と。すると彼女はあっさりと「そうですね」と同意した。その言葉には何の感情も付着していなかった。私はそのニュアンスにあんどう蒼の「肯定的な不在」を感じた。それはこういうことだ。確かにあんどう蒼の身体を着た何者かがそこにはいるが、実体はかの大広間に居ると。彼女はそこから私のいる現実に波風を立てて私の生命を遊ばせているのだと。私はほんの入り江であんどう蒼を水浴びしただけなのだと。